weekly business SAPIO 2000/1/20号
□■□■□■□ デジタル時代の「情報参謀」 ■weekly business SAPIO □■□■□■□
                                       クライン孝子 TAKAKO KLEIN
                                             

《日本の外交常識ではスパイ出身のプーチンには太刀打ちできない》


 2000年紀現象で手に汗を握った1999年末から2000年初めの騒動も無事パスして、今日は早くも20日目に入った。
 さすがにあのコンピューター騒動も2000年紀騒動も、日が経つにつれ、その緊迫と恐怖感は次第に薄れ、今では誰も話題にさえしなくなった。

 パソコンで仕事をこなすようになった私など、実を言うと何か起るのではないか、もし起きたらどうしようと、12月31日は内心ビクビクしていた。もっとも、ドイツの2000年紀は時差の関係で日本より8時間遅れてやってくる。そういう点ではまず日本の結果を見てから対処しても遅くないという時間的な余裕がある。ドイツのその筋のエキスパートもそう思って、じっと日本の様子を観察していたということだ。もっとも私なんか、日本が無事と知ったとたん、すっかり安心しきって、その後はコンピューターの心配などそっちのけで、フランクフルトの町へと繰り出していった。フランクフルトの町では盛大に2000年紀行事が行なわれるこ
とになっていたから、そのお祭りに便乗するためにである。
 さすがに「ユーロの番人」バンカーたちは職務上、職場を離れるわけにいかず、その大半は夜通しコンピュータ―監視にあたったという。昨年の「ユーロ」導入でも出社を命ぜられ、2年続けて12月31日に出勤したバンカーもかなりいたらしい。お気の毒だがしかたがない。

 その2000年だが、ここヨーロッパでは年明け早々厄介な問題が次々と起っている。一つはイギリスにおけるインフルエンザ流行、二つはフランスにおける強風被害とタンカー転覆によるオイル流出事故、三つ目はドイツにおける16年間のコール政権の置き土産「ヤミ献金疑惑」の拡大である。
 しかしそれにもまして、厄介というよりもむしろ薄気味悪い問題として突如浮上してきたのが、ロシアにおけるエリツイン大統領の突然の辞任と、その後継者と目され事実上有力な次期大統領候補としてロシア政治の主役として踊り出たプーチン首相の存在である。

 日本でもこのロシアの政治異変について、いろいろ取り沙汰され、マスコミでも報道している。日本にとってロシアは

1. 北方領土返還

2. 資源の宝庫シベリア開発

 という二つの重要課題が絡み合っているだけに、軽々しく扱えない国なのだ。それだけにマスコミの論調も歯切れが悪い。ロシアのつむじを曲げないように気を遣い、決して核心に触れようとしないで、楽観論だけを前面に押し出し、ひたすら友好関係の継続を促そうとする。
 もっともこれでは一対一という同等の外交とはいえない。これを押し通せば、必ずある時、日本はおおやけどをしかねないからだ。
 というわけで、今回は日本では余りに知られていない、しかしドイツでは周知の事実である、“プーチンの正体”に焦点を合わせ、その人となりと行動=政治に関して記述しておこうと思う。

 まず西側におけるプーチン評は、「下手をすると超ナショナリズムに走り、第二のミロセヴイッチになる」であり、アメリカの元安全保障顧問官ブレジンスキーは「エリツインをしのいで点を稼ごうと焦る余り、専制政治を行う危険性がある」と警告している。

 そのプーチンは年齢47歳。1952年10月(スターリンが亡くなる半年前)に、ペータースブルグで鍵屋の息子として生まれた。大学はペータースブルグで法律を学ぶ。大学では模範生。だが激情家でときとして感情を理性で抑えられなくなることがあったという。
 1974年、プーチン22歳のとき、大学でソ連秘密警察より秘密警察工作員の募集があり、プーチンはさっそく志願し、スパイ訓練を受けている。
 終了後、ソ連秘密警察国際部の学術・技術部門に配属。以後、旧東ドイツ・ドレスデンのソ連秘密警察部に勤務、主として産業スパイ任務に携わる。その功績により旧東ドイツ秘密警察「シュタージー」より、再三にわたって表彰される。ドイツ語に堪能で、外国におけるスパイ活動を通して海外の諜報機関要人との人脈も太い。スパイのノウハウを身につけているため、黒子のように目立たない行動、言葉でなくて目による会話に長けている。スポーツでは柔道が得意で黒帯級である。

 このプーチンが一スパイとしてではなく、政治家としてのキャリア路線を驀進するのは、旧東ドイツ崩壊後、故郷ペータースブルグに帰国した直後のことである。
 ゴルバチョフ失脚後、恩師ソバチャックが市長に選出されるや、プーチンはその恩師に乞われ、91年には早くも副市長に就任、イギリスとの接触に尽力している。91年に市長の随行員として一度目の渡英、二度目は単身ロンドンを訪れ、チャールズ皇太子やサッチャー元首相とも親しくしていたようだ。その関係で、92年9月には、サッチャー元首相がアゼルバイジャンの首都バクに私的な用と称して訪れている。だがこの訪問は、オイル会社「ブリテイッシュ・ペトリューム」の使いであり、三千万ドルの入ったスーツケースを下げてあるホテルに宿泊し、そのスーツケースをロシアの要人に手渡したといわれる。カスピ海には3300億ドルに相当する油田が眠っており、イギリスがさっそくその利権獲得に乗り出したからであろう。
 これを聞きつけたアメリカも、遅れてはならぬとカスピ海のオイル利権獲得に乗り出している。

 第一次チェチェン紛争(94−96年)はこのロシア、イギリス、アメリカ三国のつばぜりあいの中で勃発した。今回の第二次チェチェン紛争では、ロシア側が第一次の二の舞(第一次ではロシアの世論はチェチェン寄りだった)にならないよう、エリツイン大統領は旧ソ連の秘密警察でその教育を受けたプーチンを責任者に抜擢した。ここでプーチンは、スパイ時代のトリックを縦横無尽に駆使したといわれている。モスクワにおける連続アパート爆破で、チェチェン人をテロリストに仕立て、ロシア人民のチェチェン戦争支持を取り付けたうえ、徹底した報道管制を布き情報操作に腐心したらしい。そして、ついにエリツイン大統領辞任後の大統領候補として、エリツイン大統領より約1万個におよぶ核弾頭の鍵を手渡され、その切符を取りつけたのだ。

 というわけで、今後のロシアの運命はプーチン次第ということだが、一方ではその行く手は非常に厳しいといわれている。
 その理由だが、今回の第二次チェチェン紛争で、

1. ロシア財政は破綻に近いというのに、それにもかかわらずすでに戦費50億ドルを消費した。

2. 頼みの綱であるカスピ海の油田利権は、アメリカの巧みな外交戦略と強力な資本力によって、ほとんど奪われてしまった。(weekly business SAPIO 99/11/25号参照のこと)

3. イスラム教原理主義者の「失うものはない」とする徹底抗戦で第二のアフガニスタン侵攻、もしくは第二のべトナム戦争と同様ドロ沼に足を突っ込むことになる。

 からだ。
 さて、そこで日本だが、もしこのロシアと外交折衝に臨むとすれば、並大抵の技では太刀打ちできない。このことがこれで少しわかっていただけたのではないかと思う。

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