weekly business SAPIO 99/11/18号
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                                      クライン孝子 TAKAKO KLEIN
                                             

《「ベルリンの壁」撤廃10周年へのドイツと日本のそれぞれの視点》


1961年より28年間にわたって、冷戦及び東西ドイツ分断の象徴として東西ベルリンと東西ドイツに横たわっていた「ベルリンの壁」が撤廃されたのは1989年11月9日のこと。今年はちょうど10周年に当たり、新首都ベルリンで盛大な式典が開催された。このような記念すべき日、本来ならベルリンにいる私だが、実はこの日私は日本にいたのだ。
 そのため、日本のテレビニュースでこの様子は取り上げられると聞いて、一体どうゆう取り上げ方をするのか参考にしようと見るつもりでいた。ところが残念なことに見損なってしまったのだ。
 最後の仕上げとでもいうか、ようやく2週間にわたる仕事を「サピオ」のインタビューで締めくくり、ホッとして部屋に戻った途端、気がゆるんだらしく、一気に疲れがでてそのままベットに倒れ込むように眠り込んでしまったからである。
 というわけでこの式典の様子は、ドイツへ帰ってから知ることとなった。

 その式典だが、結論を先にいうと、この式典は20世紀の最後を飾るにふさわしい、しかもベルリンを世界に知らしめる絶好のイベント事業とあって、スポンサーも事足り、ドイツの出版王「アクゼル・シュプリンガー」社やコカコーラ社がつき、ドイツ統一達成に貢献したコール元首相が中心となって、当時統一に力を貸し功績のあったソ連元書記長ゴルバチョフや米元大統領ブッシュを呼び込むことに成功した。
 その様子を記述してみるとこうだ。

 まずベルリンでは新装なったベルリンの帝国議事堂=ライヒスタークに彼らを招聘して、全連邦議員が見守るなか盛大な記念式典が挙行された。その後ベルリン市でも市主催の祝典を開催し、そこでは、「ベルリンの壁」崩壊とドイツ統一でとく
に貢献のあった米ブッシュ元大統領を名誉市民として迎えいれた。
 その一方で暗い話もある。なぜならこの日を「待っていました」といわんばかりに、連邦最高裁判所では、当時東ドイツ最後の首長だったエゴン・クレンツをはじめ他の2名に対し、「ベルリンの壁」構築の責任を問うとして、エゴン・クレンツには懲役刑6年半、他の2人にはそれぞれ3年の最終判決を言い渡したからである。これを不服とするクレンツは、即刻欧州裁判所に上告するとの意向を表明しているものの、これにはこの判決を妥当とするグループと、明らかに見せしめで政治的判断が加味されているとするグループの両派に分かれている。
 とくにここで前者の言い分を取り上げると、この「ベルリンの壁」では

1. 壁を越えて西へ逃げようとした東ドイツ人約300人近くが東の国境警備隊によって射殺されたこと。

2. 事前に発覚され投獄された者は10万人近くに上ること。うち数万人を東ドイツ政府は、外貨不足でのどから手のでるようにほしがった外貨と引き換えに、まるで牛や馬のように西側に売り渡してきたこと。

3. 中には運良く、西への逃亡に成功した東ドイツ人もいるが、その行為は命がけだったこと。例を幾つか挙げよう。

イ) 1人は西ベルリンへ出稼ぎに出ている最中に「壁」が構築されてしまい家族と生き別れになった。身体障害のこどもを抱えていた妻を案じたその男性は、家族を東から連れ出したい一心で、壁の下にトンネルを掘り、家族救出に乗りだした。そのトンネル作りが危うく東の国境警備隊に発覚されそうになったときは、警備隊員を殺害して救出している。彼はその心境を「打たれて死ぬか、打って助かるかという瀬戸際にあって、自分と家族が無事に西へ逃げるには相手を打つ手段しか残されていなかった」と告白している。

ロ) 2人目は、1度も乗ったことのない小型飛行機を作って、西への逃亡に成功した。 彼は「西へ逃げると決心してから夢中で飛行機を作った。2度失敗したが、3度目に西へ向けて飛んだら、あっというまに『壁』を越えていた」とその喜びを語って見せる。

ハ) 3人目は18歳の少年で、真夜中チェコの国境にたどりつき、チェコ国境警備隊を失神するまで殴ったうえ、その制服に着替えてまんまと国境警備隊になりすまし、オーストリアの国境にたどりついた。このような話は当時枚挙にいとまがなかった。

 その法の番人であり責任者に重罪は当然だというのである。
 残念ながら、こうした「ベルリンの壁」にまつわる悲劇は、朝日新聞の特派員には理解できないらしい。例えば11月14日付朝刊に目を通すと「壁崩れて10年のベルリン 旧東への冷遇、祝典に影」という見出しで「ボンに首都を置いた西独への吸収合併に過ぎなかった。夢はしぼみ、東西の経済格差など厳しい現実が横たわる。首都移転を完了した『ベルリン共和国』の重い課題になる」という記事を掲載している。確かに記者のいうように東ドイツでは旧共産党の勢力が今も衰えていないことは事実だ。しかしその理由を即冷戦中のイデオロギーと結びつけ、ウラをとらないまま記事にしてしまうところがいかにも朝日の新聞記者らしい。
 ではその真相とは何か。答えは簡単である。彼らはただやみくもに西側にたてつくことで、少しでも西側から有利な条件を引き出そうとしているのだ。どうやらイデオロギーに凝り固まった記者の目には、その辺の微妙な旧東ドイツ人の「壁」崩
壊前と崩壊後10年の心境は見通せないらしい。

 それはさておき、日本では、天皇、皇后両陛下在位10年を祝う政府の記念式典が12日に開かれるにあたって、記者会見が行なわれたという。その席上、記者団の質問「即位以来の外国訪問で最も印象深い思い出」のお答えとして、
 
 天皇陛下は「今朝はちょうどベルリンの壁が壊されてから10年に当たりますが、壁が壊されて4年後、私はドイツを訪問し、時のワイツゼッカー大統領、デイープゲン・ベルリン市長両ご夫妻とともに、皇后と西ベルリンから東ベルリンへ、壁のないブランデンブルク門を通って歩き、そこでベートーベンの『歓びの歌』の合唱を聞いたことは、忘れ得ない思い出となっています」
 
 皇后さまは「それぞれの旅に思い出があり、その中から最も印象深い1つを選ぶことは難しいのですが、いま陛下もお触れになりましたように、私も『壁』崩壊後のベルリン訪問は、とりわけ深い印象と共に思い出します。今から10年前のちょうど今ごろ、テレビのニュースで朝の光をいっぱいに受けたブランデンブルク門に群がる人々の笑顔を見、その明るい光景に強く心を打たれてから4年後、陛下のおともをしてベルリンを訪れ、ワイツゼッカー大統領ご夫妻とベルリンのデイープゲン市長ご夫妻とともにブランデンブルク門を通りました。その後、壁の周辺を歩き、そこで亡くなった幾人かの方々のお墓を見、この壁とともにあった30年近くに及ぶ世界の歴史とその壁のために命を失った人々と、また運命を違えた多くの人々のうえに思いをいたしました。忘れることのできない旅の1日でした」
 と語られたとある。

 その両陛下のドイツ人への心やさしい思いがドイツ人にも届いたのであろうか。
ドイツの主要紙の1つ「デイ・ウエルト」紙13日付朝刊の第1面は両陛下の即位10周年記念式典をカラー写真入りで掲載し、日本国民がその式典を心からお祝いしたと報じていたことを付け加えておきたい。

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