weekly business SAPIO 99/2/18号
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                                      クライン孝子 TAKAKO KLEIN
                                             

◆国王死後、ヨルダンと中東に残された「4つの難問」◆


2月8日に行われたヨルダン国王フセインの葬儀は後年バランスメーカーとして、その名を世界的に知らしめた政治家フセインにふさわしい葬儀だった。何しろアメリカを初め世界40カ国の大物政治家や実力者が勢ぞろいし、葬式に参列したのである。

わずか人口600万人弱と東京の半分に満たないヨルダン国王の葬儀にこのような多彩な顔ぶれが出揃うのは、この国が第二次世界大戦後、イスラエル建国とともに、その大方の運命をユダヤ人との対決で終始したこと、とくに1967年の第3次中東戦
争で、ヨルダン川西岸と東エルサレムをイスラエルに占領されてからのフセイン国王の奪還に対する執念は蛇のそれに等しい、といわれていたことからもうなずけよう。

 91年の湾岸戦争でもヨルダンは、イラク側につき反イスラエルの立場に立った。
ところが、そのフセイン王はその後変身し、94年7月、イスラエルのラビン首相とともに訪米し、両国の戦争状態に終止符を打つ「ワシントン宣言」に調印した。

 結局、最後に行き着いたところはイスラエルとの和解だったのだが、その真意を忖度すると、戦うのでなく和解という手段によって、67年にイスラエルに占領された地域のうち、特にヨルダン川西岸を最終的にパレスチナ人の手に戻そうという魂胆が国王の念頭にあったと思われる。なぜならそのヨルダンの人口の3分の2がパレスチナ難民で占められているからだ。

 ところで、そのフセイン国王だが、その人生は波乱万丈だった。
 祖父王の暗殺を目撃し、父王が病弱だったため16歳という若年で王位に就いた。
その後は数十回もの暗殺を逃れて生き残り、46年間にわたって世界の火薬庫といわれた中東で、ヨルダン統治にあたってきた強運の持ち主だ。

 その間、ユダヤ人との対決の間にあって、味方であったはずのパレスチナ解放機構(PLO)の背信という局面に立たされたこともあり、このときフセイン国王は
直ちに国内のPLO追放(1970年9月)を断行したこともあった。

 とにかく彼の政治資質は並外れていたし、海千山千の強大国相手にしたたかにヨルダンを背負って生き延びようとする政治処世術は、まるでキツネとタヌキの両方の顔を持ち合わせているかのようだった、とフセイン国王を知る人はいう。

 しかし95年のイスラエル・ラビン首相の暗殺以後、和平推進のペレス政権が後退し、ネタニエフ政権が成立すると、再びイスラエルとパレスチナ人との雲行きが怪しくなり、和平工作は暗礁に乗り上げたままである。この時期、フセイン国王にとしては死んでも死にきれぬ思いがあったろう。

 それかあらぬか、フセイン王死後、ヨルダンには早くも懸念材料が噴出し始めている。これらの問題を今後アブドラ新国王はどのように解決していくのか。当面はその彼の手腕を見守るしかない。

 その主な問題点だが、思い付くままに4点挙げるとこうだ。
1)まず、イスラエルによるヨルダン川西岸へのユダヤ人移住問題。国連では、フセイン国王葬儀の翌日から2日間にわたって総会を開き、ネタニエフ首相のユダヤ人強硬入植政策を批判、これまでの国連決議に従うようにとの勧告を、115票(イスラエルとアメリカは反対)で可決した。

 にもかかわらず、ネタニエフ首相は5月に行なわれる総選挙勝利を狙い、急遽、新住宅建築(当初1000軒以上)に取り掛かり、年内にユダヤ住民20万人移住の計画を建てる予定で、1999年の国家予算でもこの予算枠を思いきって増やすことにした。

 ちなみにその予算額だが、ガザ地区の建設もふくめ2億7500万ドルを組んでいる。こうした中で、ヨルダン川西岸からのヨルダンへの難民や移住者が増大(1998年は前年の4%増)し、ヨルダン財政を圧迫し始めている。

2)世界的な景気後退の中で、ヨルダンもその余波を受け、1998年の成長率は0.6%に留まっている。何一つ資源を持たないヨルダンでは、今年の1月5日、フセイン国王が病を押してクリントン大統領に会い、1999年度におけるアメリカからの経済支援としてとりあえず1億5000万ドル、軍事支援として7500万ドルを取り付けることに成功した。だが2000年については未定である。

3)92年から94年、イスラエルとの和解で大々的にイスラエル経由の観光客呼びこみを行ない,一時は成功してかなりの外貨を獲得したが、その後は下り坂にある。

4)91年の湾岸戦争で、サウジアラビアやクエートを敵に回したため、出稼ぎにでて本国に送金していた30万人のヨルダン人(主にパレスチナ人)が追放され帰国している。彼らには再就職の見通しが皆無で、その彼らが時には不満分子として国内秩序を乱す火種になる要因を抱え込んでいる。


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