クライン孝子  お知らせ


毎月一回,月初めに『お知らせ』を皆様にお届けしているのですが、今回は同人社さまが拙稿「ドイツの安全対策を踏まえて『学校で起る事件−これでいいのか,日本の報道姿勢』」を少し早めに緊急UPされましたので、私もそれに合わせ,ちょっと7月には早いのですが、お便りすることにしました。

目下,日本は梅雨の時期だそうですね。
こちらは、からっとした夏のお天気が続いています。
そうかと思うとときどき、急に寒くなるというのがドイツのお天気です。
夏になると、競うようにして、ドイツ人が南フランスやスペイン,イタリアへ休暇に出掛ける気持ちがわからないではありません。 
 
私の方は,休暇どころでなくて,貧乏ひまなし!、
近ごろはよく雑用が入り、そちらの方に気を取らればたばたしている毎日です。
さて、拙著につきましては、同人社さまをはじめ、皆様のご厚意で、着々と売れ行きをのばしており、嬉しい限りです。この本の売れない時期に! こういう嬉しいニュースでは何よりもわたし担当の編集者が喜んで下さっているとのことで、ほっとしております。

そうそう,近況といえば、6月10日付朝日新聞の『私の視点』という欄で、田中真紀子外相にエールを送らせていただきました。朝日新聞の主張には抵抗があり、拙著『お人好しの日本人したたかなドイツ人』でも、きびしく批判しましたので、朝日新聞からは金輪際,お仕事は来ない,そう思いこんでいました。ところがですよ、ある日突然親しい朝日新聞の記者さんから、『私の視点』欄に何か書いてほしいと、メールが飛び込んできたのです。 
もう、びっくりしたというか、親しい友人にこの話をしたところ、「朝日新聞って、そういう腹の太いところもあるのよ、書いてみたら?」「ふーん、そうかあ」。 
というわけで、ちょうど、田中真紀子外相に関し、とくに活字媒体で、男性の有識者たちがこれみよがしてにマイナス記事を書いて,外相更迭とまでいいはり、外相のイスからひきずりおろそうとしている動きがあり、憤慨していたものですから、田中外相にエールを送る一文をまとめてみました。そうしたところ、さっそく特集扱いにしていただくことになったのです。しかもその同じ時期に今度は雑誌『正論』からもお仕事が入りました。そこでまた一つ,田中真紀子外相にエールを送る原稿をまとめました。

産経新聞も田中真紀子外相攻撃には、熱心でした。 どうなるものやら,きっと何かいってこられるにちがいないと思っていました。それなのに、こちらも掲載して下さるとのことです。 その 『正論』は七月一日発売です。こちらは少し長めにまとめてみました。
そういえば、その朝日新聞における拙稿掲載では,翌日さっそく、沢山の方から、「よくぞ、言ってくれた」というメールが入って参りました。
また朝日新聞の親しい記者永栄さん(遂に名前を公表します,彼怒るかな,怒らないよね)からは、読者の一人から、どうしても届けてほしいというおことずけとともに、東海市にお住まいの確かお医者さまの奥さまからの長いご丁寧な手紙を転送してくださいました。律儀な永栄さんは、この方に拙著『お人好しの日本人したたかなドイツ人』を贈ってくださったそうです。わたしも折り返し,奥さまにご返事さしあげました。

そうそう,嬉しかったのは、日本の有力な政治家の何人かから、この『私の視点』掲載後、あのヒステリーにも似た田中真紀子外相たたきが少し,収まったというメールをいただいたことでした。

最後に愚息の近況ですが、NHKのお仕事,無事終えて、ドイツから合流したガールフレンドと二週間,日本を旅し,七月四日にドイツへ帰ってまいります。
二十日は、親しくして頂いています曽野綾子さんからお招きを受けて、三浦半島の別荘を訪ねたそうです。紺碧の海が見えて、富士山が見えて、お庭にやしの木が植えてあって、二人ともとても感激したそうです。
何よりも 曽野さんの心のこもった手作り料理に舌ずつみを打ったようで、『生まれて初めて、あんな美味しい料理を口にした』と、その日の夕方,さっそく息子はコーフンして電話を掛けてきました。

というわけで、いかに私の料理がまずいか、下手であるか、とうとうバレテしまいました。
息子のためにいろいろとお手を掛けてくださったNHKの皆様、日本の多くの友人の皆さま、
ありがとうございました。心からお礼申し上げます。 

と、ここまで書いたところで、日本からとても悲しい知らせが入って参りました。
文芸春秋で、父のようにお慕いし、わたしの文筆活動ではなくてはならない人物であり、そして文春を創立された文豪菊池寛のもとで、戦後の文春隆盛においてその育ての親といわれた上林吾郎氏がお亡くなりになりました。上林さんとはフランクフルトの書籍見本市で、トッパンの人のご紹介で、お会いしました。当時専務でいらっしゃった上林さんとトッパンの偉い方とを、わたしの運転するジープにお乗せして、我が家の近くにある『レストラン』へご案内してお話したのが初めてで、かれこれ二十年も前のことです。

確か韓国問題について討論したのがきっかけでした。そのとき上林さんが,「君,面白い考え方をしているネ」とおっしゃたのです。いったいどなただろうと、頂いた名刺をもう一度,見ましたら、あらあら、文春の専務さんではありませんか。そこでわたしはさっそく「文春には恨みがある」と話しかけ、「どうして?」とおっしゃるものですから「だって、何度も原稿を送ったのに、紙くず籠に捨てられちゃったあ}と恨めし気にいいましたところ、「じゃ,君、ぼくに送ってきなさい」って。

半信半疑だったものですから、わたしは冗談だと思い聞き流していました。ところが、数日経って、日本から電話が入り、電話の主とは,何と『諸君!』の編集長というではありませんか。そして、生まれて初めて原稿の注文というのを頂いたのです。嬉しかったなんてものではありませんでした。天に舞いあがらんばかりに浮かれていたと思います。

以後,上林さんにはあれこれ陰になり日向になり、いろいろとお世話になりました。会長を退かれ、自宅療養に入られてからは、ときどきご自宅の方へ、お伺いしたものです。玄関で失礼しましたけれど、奥さまやお嬢様には、上林さんによろしくお伝え下さるように、お願いしておきました。入院されたとお聞きしてからは、少し足は遠のいていたのです。でも日本へ帰国すれば、必ずお電話だけは差し上げておりました。

そうそう、どなたかがおっしゃっていましたけれど、「上林さんは文壇最後の編集者」だったって。
そのモノ書きへのお心ずかいは、痒いところに手が届くというか、今思い出しても、頭が下がります。
本当に,また一つ貴重な星が日本の編集の世界から消えた、そんな気がしてなりません。
心からご冥福をお祈りいたします。 

合掌

6月23日

クライン孝子


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