クライン孝子  お知らせ


バタバタしているうちに、早くも、7月ちかくになってしまいました。

まさに、「光陰矢のごとし」。 つい最近、久しぶりコルシカに、主人と二人でバカンスにでかけましたところ、 足を骨折してしまいました。 老化現象の一つみたいです。

健康に自信を持ち、傲慢になっていたのが理由だと、大いに反省しました。 多忙で、油断し、健康管理を怠っていましたし。

さて、そんなことで、約20年近く、お世話になっていました「月刊ぎふ」での連載、 ここらで一つ、後身にその道をお譲りしようと、編集室の方に、その旨、お願いしたところ、お聞き届けくださいました。 これはその最後のエッセイです。

「月刊ぎふ」の皆さま、どうもありがとうございました。


父が亡くなって、かれこれ五年になる。父のふるさとは、京都の山奥丹波で、昔はこの土地の出身者を「丹波の山猿」などと言ったものだ。それくらい辺鄙で、満洲生まれの私が、父母と妹と共に、終戦後、満洲から引き揚げて最初に旅装を解いた地である。

村の小学校は終戦のどさくさで、約十カ月程遅れて入学した。何とか授業に付いていくことが出来たらしく、留年しないで進級した。当時は、現在のように受験競争の激しい時期でなかっただけに、授業ものんびりしていて、たとえ十カ月遅れても、何とか進級できたのだ。それに当時教科書といてもろくなものはなく、ざらざらした紙だったのを覚えているから、授業らしい授業など受けていなかった。反面、実にゆったりした小学校生活を送った。

その後父の都合で中学校の終わりに愛知へ、さらに高校入学後、岐阜の美濃加茂に引っ越した。高校は愛知県江南市の滝高校。中学の終わりに転学しそのままエスカレートで高校に進級した。美濃加茂から滝高校まで、毎日通学していたのである。その後岐阜市立短大に入学したから、短大生活は岐阜で過ごした。

卒業後、私は思い切って上京することにした。このころから密かに日本を飛び出そうと決めていたからである。ちょうど東京オリンピック開催直前だったこともあって、さっそく就職先を帝国ホテルと決め、父には内緒で、そって就職試験に挑戦した。かなり競争率は高かったということだったが合格し、卒業と同時に帝国ホテルに勤務した。

その後はいうまでもない。とにかく海外へ出ることのみを目的に、そのチャンスを覗っていた。そして二八歳になってようやくその機会が訪れ、先ずスイスのチューリッヒ、次はドイツのフランクフルトで滞在することになった。以後今日に至るまで約三四年間、当地に住んで、ドイツ人と結婚し、一男ももうけた。

その間、里帰りすれば、必ず一人暮らしをしている父と訪ねた。父が美濃加茂に住んでいるということで、ある種の義務めいたものがあったように思う。しかも夫にとっては父の住む美濃加茂がもっとも気に入っていたらしく、父が用意した自転車に乗って、サイクリングを愉しみ、それを土産話=自慢話にしたものだ。

ところが、その父が亡くなって事態は変わってしまった。わずかだったが、父がすんでいた土地が人手に渡ってしまったことで、私の岐阜の接点がなくなってしまったからだ。本籍は美濃加茂においているし、友人もいるのだが、父の死後は、なぜかその足はすっかり遠のいてしまった。

「月刊ぎふ」もすでに二十年近くお世話になって、この絆だけは大切にしようと思ってきた。けれども私の仕事上、そうも行かなくなってしまったのだ。というわけで、この辺で「月刊ぎふ」とお別れし、若い気鋭のもの書きの方に、道をお譲りしていいのではないかと…  ラッキーなことに編集室にその旨お話したところお許しを頂きました。

今後は皆さまとネットでお目に掛かりたく思います。私のホームページhttp://www.takakoklein.de「クライン孝子の日記」は一日約一万人近く、世界中の読者が訪問して下さり、先月総計百万を超えました。ここでは毎日、いろいろ世界情勢と日本とをやさしい言葉でまとめて、皆さんに発信しております。きっと皆さんとはこちらでお目に掛かれるのではないかしら。そう思い、楽しみにしております。

長い間、どうもありがとうございました。またいつかお目に掛かれるのを楽しみに、お元気で、さようなら 

平成16年7月吉日 クライン孝子

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