クライン孝子の辛口コラム
ドイツからの警鐘 Vol.16
国際政治直視できない油断こそ問題
−日朝首脳会談で改めて知った「現実」−

  (産経新聞平成14年9月27日「正論」掲載より転載)  

<押し止められない潮流>


史上初の日朝首脳会談が北朝鮮の平壌で九月十七日開催された。この会談実現に当たって一般的には一年余にわたる外務省サイドによる水面下折衝の成果と捉(とら)えられているようだが、実はそうではない。そこには、何者によっても押し止めることの出来ない世界の潮流があるのだ。つまり、一九八九年の「ベルリンの壁」崩壊により東ドイツが、九一年の旧共産体制派によるクーデターの失敗でソ連が崩壊したその延長線上で、まさに起こるべくして起こった北朝鮮崩壊現象といっていいからだ。

 これには二つ理由がある。一つは米国でブッシュ政権が誕生したことで、強硬外交が主流となり、それまでのクリントン政権によるやんわりムードが影を潜め、北朝鮮をイランとイラクと同じ土俵において「悪の枢軸」と決めつけたことだ。二つは昨年九月十一日、米同時多発テロ事件後、北朝鮮にとって味方であり頼みの綱だった中国やロシアが、米国に追随しテロ撲滅の旗振り役に回ってしまったことである。

 このため世界各国でテロに対する警戒感が一挙に高まり、テロ国家に対する締め付けが厳しくなり、兵器や覚醒(かくせい)剤密売によって外貨を稼いできた北朝鮮は地下ヤミルートの道を絶たれ、今や経済破綻(はたん)一歩手前という瀬戸際に追い詰められてしまったからだ。《米国の世界戦略の一環》

 <米国の世界戦略の一環>

米国がこの北朝鮮逼迫(ひっぱく)事情を見逃すはずがない。当地ドイツにおける極東情勢観測筋によると、そもそも今回小泉首相による訪朝が実現したのは、実は二十一世紀前半の米国世界戦略の一環として、日本にその役割分担を果たして貰(もら)う狙いがあるという。なぜなら米国が目下もっとも警戒しているのは中国で、この中国から北朝鮮を引き離すには、困窮した北朝鮮に救済の手を差し伸べ、先ずは韓国主導の南北朝鮮統一を図る計画だという。ところがその朝鮮半島統一には莫大(ばくだい)な復興資金が必要である。ちょうど十二年前のドイツがいい例で、ドイツは今もこの統一では東ドイツという重いお荷物を背負って四苦八苦している。統一となれば韓国もまたその重荷を背負うのは必至。だが韓国はドイツと違い、一国では到底その荷物は背負いきれないのだ。そこで日本の経済力に期待し、資金面において一枚噛んで貰うという。

 そういう意味では、この日朝首脳会談はこうした複雑な国際情勢が微妙に絡み合っているだけに、交渉が難航したからといって簡単に席を蹴って引き揚げてしまう無責任なふるまいが許される会談ではなかった。

 もっとも、その一方で米国の後ろ盾もあって今回の北朝鮮との交渉ほど日本にとって有利なものもなかった。何しろ小泉総理をして「拉致事件解決なくして国交正常化交渉なし」と言わしめ、これまでシラを切り続けてきた北朝鮮に拉致事実を認めさせ、謝罪までさせてしまったのだから。《外務省のかくも多き失態》

 

<外務省にかくも多き失態>

にもかかわらず今回のトップ会談はお世辞にも成功といえず、日本外交の不手際な面が目につくのは一体どういうことなのだろう。例えば拉致に関しても金正日は口頭で謝罪しただけで、日朝平壌宣言にその一項は明記されていない。しかも外務省は拉致事件被害者の死亡日を事前に北朝鮮から知らされていながらこの情報を隠し、首脳会談のシナリオを著しく狂わせてしまった。それだけではない。北朝鮮が提示した拉致被害者安否情報も何ら具体的な裏づけがなく、「北朝鮮に拉致された人を救う会」が綿密に調査した結果、この情報の大半が信憑(しんぴょう)性に乏しい可能性さえ出てきている。

 もっともこうした一連の外務省がらみの失態を目の当たりにすると、どうもテロ国家北朝鮮の思いつきそうな手口で、その北朝鮮の仕掛けたワナに交渉に当たった外務省のお役人が見事にはめられたような気がしてならない。その一方でこうした事態に至ったそもそもの原因を考えると、単に外務省のせいではなく、日本全体の戦後体質、つまり平和を謳歌(おうか)する余り、まかり間違えば不審な工作船の徘徊(はいかい)で拉致事件にまで発展するという厳しい国際政治を直視しなかった日本の油断にこそ問題があるといっていいかもしれない。

 拉致事件の被害者はもとより、その家族はまさにその生贄(いけにえ)にされたのだ。こんな悲惨な出来事は二度とあってはならない。そのために今からでも遅くない。今一度国民一人ひとりがこの事件を自らの痛恨事として受けとめ国家とは国益とは何かを考え、猛省する時期にきている、そう思うのは私だけだろうか。

to Back No.
バックナンバーへ