クライン孝子の辛口コラム
ドイツからの警鐘 Vol.18
  「占領の呪縛」解かれ教育改革 「新基本法」で国の伝統文化を再認識

 (産経新聞 「正論」 2002年11月27日掲載より転載)  
《道義国家としての生き方》

 明治天皇が日本国の教育方針を明確にし、「教育勅語」を発布されたのは明治二十三年十月三十日である。この「朕惟(ちんおも)フニ」で始まる教育勅語で、とりわけ印象に残るのは、日本が道義国家としてどう対処すべきかその事柄が具体的に示されていることだ。現在、文部科学大臣の諮問機関「中央教育審議会」=略称「中教審」=で進められている「教育基本法」の見直し作業と共通点が少なくないように私には思われる。

 その「中間報告」だが、教育基本法改正のポイントとして(1)日本人としてのアイデンティティ(伝統文化の尊重、郷土や国の文化を理解し、自国の地位を高めるよう努め、同時に他国の伝統文化をも尊重する国を愛する心)と国際性(2)国民共通の規範の再構築。国家社会を形成する一員として、使命と役割を自覚し実践するとともに、自他の関係の規律を身に付けるなど道徳心・規範意識を育むこと(3)家庭の教育力の充実。家庭は教育の原点であることを踏まえ、保護者が子弟の教育に果たすべき役割と責任について明記すること。加えて(4)感性、自然や環境との関わりの教育を充実し、日本人が古来より慈(いつく)しんできた自然に対し理解する力を培うこととある。

《米国に「教育」を丸投げ》

 中教審は今後、公聴会などで国民の意見を聞いたうえで、最終答申をまとめ、文部科学省は来年通常国会での法案提出をめざすという。

 もしこの法案が国会で成立すれば、まさに敗戦このかた半世紀以来の画期的な教育改革で、日本の二十一世紀は、この教育基本法とともにその一歩をスタートさせるといっても決して過言ではない。もっとも同じく第二次世界大戦敗戦国になったとはいえ、その後日本とドイツの教育理念はかなり違ってしまった。日本はドイツにスタート地点から大きく水をあけられたからである。

 ドイツでは占領国に教育を丸ごと委ねることをよしとせず、当時占領国の干渉を頑としてはねつけ、アデナウアー首相はもとより、つい十三年前、「ベルリンの壁」崩壊まで、米ソ対立によりドイツが東西に分断されていた最中にあっても、日本の教育勅語とよく似たドイツ教育理念を固守し続けた。

《戦勝国の指図拒んだドイツ》

一方日本はどうか。この国は敗戦と同時に、その教育理念とシステム(確かドイツ方式だったはず)を米国式に切り替えた。そして、米国の占領政策に協力する形でその導入に率先して手を貸してきた。

 旧日本軍の執拗(しつよう)な抵抗でキリキリ舞いさせられた米国は、当時の苦い体験を教訓に、日本人の多くが持ち合わせていた国への奉仕による自己犠牲を重んじる戦前教育をことごとく排除し、骨抜きにすべきだと誓ったに違いない。この骨抜きで、日本の若者のひ弱さはもとより、その根幹ともいうべき日本古来の伝統文化の氷解=破壊に急速に繋がった。

 一方で米国は日本弱体化推進策の一環として韓国を抱き込み、見える部分では若者に三十カ月もの兵役を課すなどして軍備強化を図り、見えない部分では反日教育を背後でサポートし、日韓の力のバランス削(そ)ぎに着手している。これは歴史が如実に証明している通りである。

 断っておくが、だからといって私は米国を責め立て糾弾するつもりは毛頭ない。なぜなら米ソの狭間(はざま)にあって、冷戦の犠牲国としてその直撃を受けたここドイツという地で、双方の占領政策の相違を偶然、垣間見た私の選択は、最初から米国でしかなかったからだ。

 にもかかわらず、ドイツ国民は、ゲルマン民族存続のため、占領国のいいなりにならず魂を売ろうとしなかった。ドイツのリーダーは国民の心情と、そして誇りある歴史を十二分に知り尽くして戦勝国に対処し、教育面でも、いや教育面だからこそ、彼らの指図(さしず)を拒んでみせた。もちろん当時の世界情勢は今日と違い白人に絶対的に有利で、白人=米国人対白人=ドイツ人と白人=米国人対黄色人種=日本人では、その占領政策に温度差があったのは周知の事実である。

 とはいうものの、日本もまた二千年にわたる誇りある歴史と伝統に彩られた、押しも押されもせぬ独立大国である。それなのに占領をとっくに解かれた今もなお、占領時代の負の遺産である教育基本法の呪縛(じゆばく)から解放されないでいるのはなぜだろう。実におかしな話である。そんな折も折、教育基本法に関する中間報告がまとめられた。遅すぎたとはいうまい。国会はためらわず、早急にこの法成立を急いでほしいものである

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