クライン孝子の辛口コラム
ドイツからの警鐘 Vol.26
   国民の名誉すら守れぬ国家とは何か
=拉致事件に寄せ「百人斬り」を思う=

 (産経新聞  2003年7月20日「正論」より転載)
  
≪若者の関心呼ぶ北工作船≫

「これこそ生きた教材、教育の原点だ」。一昨年十二月、鹿児島県・奄美大島沖の東シナ海で海上保安庁の巡視船と銃撃戦の末に沈没、引き揚げられ「船の科学館」で公開されている北朝鮮工作船を見学して思った。果たせるかな、この工作船の一般公開に踏み切った日本財団によると、公開約一カ月で早くも見学者は三十万人を超えたという。

 なかでも小、中学、高校生らが修学旅行や総合学習などで見学するケースが増え、大学生もゼミの仲間と訪れるなど学習の場として頻繁に利用しているとのこと。このように一般国民、とりわけ若者の関心が工作船に集中している理由とは一体何なのだろう。

 一つは恐らく目下、日本の最大関心事である拉致事件の犠牲者の多くが十三歳の少女をはじめ若者だったことで、「もしかしたら自分の身にも降りかかったかもしれない」事件として、身につまされていること。二つは日本近海でこの工作船の徘徊(はいかい)を許してきたことで、実は長年にわたってこれら工作船を通し国内に麻薬やニセ札が運び込まれたり、密(ひそ)かに工作員が送りこまれ日本の北シンパと結託し、教育や外交部門など中枢機関に潜伏したり、重要な機密資料を盗み出すなど、巧妙な日本破壊作戦を展開するというおぞましい実態が次々と露呈し、驚天動地の境地にあるからだろう。

 これでは若者たちとて無関心ではいられまい。そういう意味では、今回の北による一連の日本破壊工作は、第二次世界大戦後、約半世紀もの間続いてきた現実と乖離(かいり)した平和ボケ教育のつけといってもよい。日本人にとっては実にいい勉強になった。

≪国に頼らぬ草の根の動き≫

 そもそも、そのきっかけは昨年九月十七日の小泉総理訪朝で、金正日総書記自らが拉致問題に触れ、この事実を認めたことによる。以後、拉致問題が一挙に世間の注目を集めることになったからだ。しかも拉致事件の当事者「被害者家族の会」のメンバーは、これまでの二十年の辛酸をムダにしてはならぬと、鉄のような固い決意と結束で、北がもくろむあらゆるあの手この手の狡猾(こうかつ)な懐柔策を即喝破し一蹴(いっしゅう)してみせた。それだけではない。この北の不当行為を国際の場に持ちこみ、事実を証明してみせた。

 これに触発されたのだろうか、近ごろ日本でも草の根=国民サイドによるこの種の動きが活発になってきている。戦後このかた、戦勝国による時にはデッチ上げさえ見え隠れする戦中戦後の歴史に関する糾弾の動きもその一つ。例えば「百人斬り」がそうだ。

 事件は今から六十六年前の昭和十二年に発生した。当時東京日日新聞(現毎日新聞)の記者が戦意高揚のため、虚報と知りつつ中国大陸で二人の将校、向井、野田両少尉が「百人斬り」を行ったと報道し、そのため昭和二十三年、南京で処刑された。しかもあろうことか戦後昭和四十七年、日本人の多くがあの戦争を過去の出来事として忘れかけたころ、今度は朝日新聞が再びこの事件を蒸し返し報道した。結果、遺族は「人殺し」の縁者として世間の冷たい視線に晒(さら)されることになった。

≪独立国の面子を問う裁き≫

そればかりか、その後、中国の対日敵対政策に利用され、現在「中国人民抗日戦争記念館」では当時の記事と両少尉の写真を大きく飾っている。遺族にとってはいたたまれない気持ちであろう。許しがたいのはこの冤罪(えんざい)が日本人の手によって仕掛けられ既成事実化していることである。そこで今年になって遺族たちはついに汚名返上と名誉回復のため、これらのマスコミを相手どり訴訟に踏み切った。

 もっとも本来ならこうした汚名返上・名誉回復は国家の責務であり、国家が率先して処理すべき問題である。先進諸国、そう敗戦国ドイツでさえ当然の償いとして、たとえ一国民の、いや一国民だからこそ失われた名誉回復には全力を挙げているからだ。

 それなのに日本では、拉致事件において国が長年頬かむりし放置してきたと同様、この「百人斬り」冤罪事件に関しても我関せずの卑怯(ひきょう)な態度をとり続けている。恐らく国は中国の顔色を窺(うかが)い遠慮しているからに違いない。だからこそ、遺族は「我慢もここまでが限界」と立ち上がったのだ。

 その遺族だが、拉致事件をお手本に、この不当行為を裁きの場でどこまでも追及していくという。となれば我々日本人もまた、この裁きの行方から目をそらせてはならないのであり、終始見守っていく必要がある。なぜならこれこそ日本の“魂”の是非、独立国としての面子(めんつ)を問う裁きになると思うから。

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