クライン孝子の辛口コラム
ドイツからの警鐘 Vol.30
   
怯んでならぬ自衛隊のイラク派遣
=ドイツに学ぶ国民としての覚悟=


 (産経新聞  2003年11月19日「正論」より転載)
  

≪危険とリスクは了解済み≫

 息子が十カ月の兵役を無事終えたとき、私に「これ、記念にとっておけば」といって渡してくれたものがある。二〇センチ×一〇センチほどの楕円(だえん)の薄いアルミ板で、真ん中でパチンと二つに割れる仕組みになっており、それぞれ二個ずつ細いひもを通す小さな穴がある。よく見ると左右に同じ番号「140175 K 41712」、裏には息子の血液型が刻みつけてあった。

 「なあに」と尋ねたら「これボクの死体番号。兵役中、もし紛争地へ送られ突発事故で戦死したら、一つはボクの死体につけ、もう一つは助かった仲間が持ち歩き、最後に家族に通知する」。なるほど息子はそのような明日の命をも知れぬ危険の中で、兵役に携わっていたのだ。私はしばらくその札を手に取り、じっと見入ったものだ。

 ドイツでは、男子は成人十八歳になると兵役かボランティアか、いずれかを義務として選択しなければならない。息子は兵役を選んだ。一九九三年だから、ドイツでは「ベルリンの壁」が崩壊、東西分断の頸木(くびき)を解かれて統一した直後のことである。

 そのあおりで、共産イデオロギーを標榜(ひょうぼう)し、周辺諸国の手足を縛り付けていたソ連が崩壊したのは周知の通りだ。結果、東西間の緊張は解け、ひとまず平和が蘇ったかに見えた。ところがさにあらず。中東周辺を中心に新たな火ダネを抱え込むことになってしまった。イラクとクウェートによる石油紛争がもとで、湾岸戦争にまで発展してしまったからだ。

 ドイツは機を見るに敏だった。このイラクとの戦争をきっかけに、それまでNATO(北大西洋条約機構)域内に限った派兵しか許されていなかったこの国は、戦後初めて軍の海外派遣に踏み切った。あれから十年余、今やドイツは世界各地に兵士を送り出し、積極的に紛争解決に手を貸している。その業績は世界の注視の的になっている。

 当然犠牲者も出る。今年六月七日、アフガニスタンでは任務交代で帰国に胸を弾ませるドイツ軍兵士を乗せたバスが、空港へむかう途中で自爆テロに遭遇、四人が死亡し二十九人が負傷した。その衝撃は大きくなかったといえばウソになる。とはいえ、こうした紛争地での危険リスクは既に国民の間では了解済みであった。遺族はもとより国民も、事態を実に冷静に受け止め粛々と犠牲者の霊を悼み、十字を切ったものである。

 一方、日本はどうか。ドイツに比べ約十年遅れでようやく七月末、イラク特措法を成立させ、自衛隊の本格的な海外活動が決まった。任務はイラク市民に対する医療物資の輸送、同国に駐留する多国籍軍の後方支援などで、いわば本格的国際貢献の初舞台といっていい。ところが、政府は自衛隊の年内派遣を念頭に何度も調査団を現地に送り、活動場所の選定とその具体的な作業の検討を行いながら、いまひとつ腰が引けている。

≪一国平和主義からの脱却≫

 理由はほかでもない。イラクは現在軍事占領下にあって、無差別殺戮(さつりく)ともいえるテロ行為が続き、不穏な状況にあるからだ。つい最近もイラク南部の自爆テロで、イタリア兵士十八人とイラク人九人が犠牲となった。米英以外の軍隊でこれほど多くの犠牲者が出たのは初めてだった。

 場所も比較的安全とされた地域だったうえ、自衛隊の派遣予定地域とも近かったから、「年内派遣」を公表していた日本政府も、以後そのトーンは少しずつ慎重姿勢に変わりはじめている。

 だが考えてもみたい。戦後の日本は「一国平和主義」に固執し、札ビラ外交に終始してきた結果、どれほど世界から顰蹙(ひんしゅく)を買い誤解を受けてきたことか。エコノミックアニマルという蔑称(べっしょう)を頂いた時期もあった。何よりも、この自衛隊のイラク派遣は、目下の焦点である北朝鮮の核や拉致問題とも密接に連動しているのである。

≪わが事としての復興支援≫

 北朝鮮とイラクは、かつてはテロ国家のよしみから蜜月関係にあった。その北朝鮮を巡り極東地域も日増しに緊迫している。しかも、日本は現在、防衛面で米国を頼りにせざるを得ず、有事の際はこの国の支援抜きでは一歩も先へ進めない状況にある。この特殊な事情を省みても、日本は今回、イラク復興支援で米国を全面的にバックアップするのは当然の義務であり、そのことを忘れてなるまい。

 それに見方を変えれば、この国際貢献が起爆剤となり、日本に対する世界の評価がより高まり、究極的には極東の平和貢献に道標をしるすことになる、そんな気がしてならない。ドイツの欧州における“今”がそうであるように。(ドイツ在住)
 

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