クライン孝子の辛口コラム
ドイツからの警鐘 Vol.31
   
イラク戦争で日本がドイツに学ぶもの
=開戦反対ではなく安保への認識=


 (産経新聞  2003年12月22日「正論」より転載)
  

≪理解超えた根強い反対論≫

 いきなり剣が峰に立たされることになろうとは、日本国民のいったい誰が予測したことだろうか。何しろ、戦後約半世紀にわたる「一国平和主義」のつけが、このような形で突きつけられることになったのだから。

 今回、日本への里帰りにあたって偶然とはいえ、行きと帰りに実に象徴的な出来事を経験し、そう思った。

 前者は十一月二十九日、成田到着直後、イラクで移動中に銃撃され日本人外交官二人の殉職を、後者は十二月十四日にフランクフルト空港で、サダム・フセインの米兵による拘束というニュースを耳にしたからである。

 しかもその間、日本政府はイラク復興支援特別措置法に基づく自衛隊イラク派遣の基本計画の概要を固め、陸・海・空合わせて計約千人をイラクに派遣すると発表した。自衛隊の海外派遣としては過去最大規模。活動内容はいうまでもなく、イラク国民に対する人道復興支援活動である。

 ところが、せっかく具体的なプランのもと、準備万端を整え、その実施を真近に控えているなか、少しはこの二つの事件で日本の世論も自衛隊イラク派遣賛成に傾き、彼らを快く現地へ送り出すのかと思っていたら、どうもそうではないらしい。

 むしろ事実上初の戦闘状態地域への部隊派遣となるので、いまなお国内では反対論が大勢を占め、日本中ハチの巣をつついたような騒ぎを展開していると聞く。

≪国際貢献へ着々体制整備≫


 最大野党の民主党などは、ドイツのイラク戦争反対姿勢を盾に、「自衛隊派遣は、国連中心の枠組みを作ってその下で行うべき」との主張を譲らず、現時点でのイラク自衛隊派遣に執拗(しつよう)に水をさす。

 だがこの論調、ナチスの戦争犯罪を引き合いに、いっとき日本でもてはやされた「近隣諸国への戦後補償および謝罪は戦後ドイツに見習え」と同様、実に乱暴な発言としかいいようがない。

 なぜなら、ドイツは日本と異なり、これまできちんとした手順(憲法改正)を踏んだ上で世界の安全保障に貢献し、その成果を世界に問い、高い評価を得て初めて、今回対イラク攻撃不参加を鮮明にした事情があるからだ。

 ドイツが憲法を改正し、再軍備に踏み切ったのは一九五五年のこと。米ソ冷戦の最前線に立った西ドイツは、旧ソ連圏に対する抑止力としてNATO(北大西洋条約機構)加盟を許されたのである。ただし派兵はNATO域内にとどめることが条件であった。

 だが冷戦後、その機能は大きく様変わりした。とくに九一年の湾岸戦争がターニングポイントとなった。当時ドイツは多国籍軍支援金として、日本の百三十五億ドルに次いで百八十億マルク(約百二十億ドル)のほか、武器・弾薬などを提供するとともに、イラク派兵をも要請された。

 さすが域外派兵にはノーを貫いたが、域内派兵の限度であるイラク国境近くのトルコまでは派兵した。だがその直後、ドイツはすばやくこれを既成事実化し、次第に域外派兵姿勢を強めていく。とりわけ九四年、憲法裁判所が「域外派兵」にゴーサインを出してからは、積極的に海外派兵要請に応じ、現時点ではその数約一万人に及んでいる。

 しかも今回のイラク戦争では、反対に回ったからといって全面的に協力を拒否しているのではない。その証拠にクウェートには生物化学兵器の探知機能を持つ特殊装甲車部隊五十人を駐留させているし、自国内の米軍基地使用と上空通過も認めている。

 さらに米兵のイラク出兵で手薄になったアフガンでは、オランダ軍とともに留守を預かり、治安維持任務を遂行している。つまりドイツは国際的な立場において「やることはやってきた」という自負があり、それが今回のイラク反対にも繋がっている。

≪反対論の裏に過去の実績≫


 無論、そこには国益に沿った冷徹な計算も働いている。アラブ系移民を多く抱えるドイツは、イラク戦争反対を唱えることで国内治安を図る意図もある。ソ連崩壊後、急速に一国単独主義を強めている米国とは距離をおき、ブレーキ役を買って一線を画そうとしている面もある。

 つまり、ドイツのイラク戦争反対には、世界がそうと認めるに値する実績が裏付けとしてあるのだ。そのことを抜きに日本がドイツを手本に、軽々しくイラク派遣反対を口にするのは、あまりにもドイツの事情を知らなさ過ぎる。

 日本がドイツを手本にするというのならば、むしろこうした機を逸することなく国論をまとめ、着実に自国の安全保障基盤を築いていく姿勢に対してではないだろうか。

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