クライン孝子の辛口コラム
ドイツからの警鐘 Vol.36
   
見落とせぬ小泉外交のしたたかさ

- 短絡的評価で責める愚を犯すな -

 (産経新聞  2004年5月26日「正論」より転載)
  

≪会談評価は大局的視点で≫


「肉を切らせて骨を断つ」という格言がある。今回の小泉再訪朝でそう思った。確かに、この首脳会談では日本側が全面的に北朝鮮に譲歩したかに見え、日本国民にとっては屈辱ものだという。だからこそ当事者の小泉総理は、その首謀者として袋叩きに遭っている。

 だが考えてもみよ。相手は世界でも札付きの「ならず者国家」である。一方、日本は世界でも珍しい抑止力(軍事力と情報力)なき無防備(危機管理機能ゼロ)国家としてその名を知られている。その国の首長が、普通の国でさえてこずるテロで鍛え抜いた国の首長と対峙(たいじ)するのである。たかが二度の会談で、拉致被害者問題すべてが一気にクリアされるほど、甘くない。

 しかも外交には必ずウラがあり、そのウラをかきながら、巧妙に押したり引いたりし解決の糸口を探っていかなければならない。それには大局的かつ複眼的視点による明晰(めいせき)な情勢分析、さらに長期・持久戦略が不可欠である。

 今回、小泉総理はちょうど渦中に居合わせたときの人として、この中に飛び込むことになった。少なくとも半世紀前の清算という名のもと、ひたすら土下座外交にのみ終始してきた過去の政治家とは違う。しかも今回の会談では、ある種小泉流の策士的外交がところどころに見え隠れしている。

≪北も「既成事実」と認める≫

 一つは、経済制裁に関し、「日朝平壌宣言を順守する限り発動しない」とただし書きをつけていること。これだと「北朝鮮は平壌宣言を順守していると言いきれない」理由で今後北を揺さぶる経済制裁発動のカードになる。

 二つ目は、人道支援とはいえ、いずれも期限付きでないため、相手の出方次第で条件闘争に持ち込み、コメや医薬品支援を先延ばしするなど小出しにすることができる。

 三つ目は、これら支援が国際機関を通じ実施されるため、横流し防止を理由に日本からチェッカーを派遣し、物資の行方を突き止めるだけでなく、同時に情報収集作業にかかわることが可能である。拒否や抗議があった場合、国際機関との連携で「人道支援に不正があった」として支援中止を宣告すればいい。

 次に拉致問題だが、見方を変えれば、今回、子供五人の返還で、拉致問題は未解決という日本側の言い分を北に了承させたともいえる。しかも安否不明者十人に関する前回の回答を撤回させ、再調査を約束させたことで、すべての拉致事件は、北にとっても既成事実化してしまった。

 そういう意味では、北にとって今回の日本からの支援は、のどから手が出るほど欲しかったとみていいだろう。

≪特権層も外貨獲得に派遣≫

 事実、東欧のチェコでは、ここ数年、約二百人の北朝鮮女性が五年有効ビザで繊維工場や靴製造工場に縫製工として送り込まれている。女性たちは北の『特権階級』である。月給は二百ユーロ(約二万七千円)。賃金はすべてプラハの北朝鮮大使館が一括してチェコの雇用主から受け取り、本国へ送金している。

 その国ぐるみの外貨稼ぎといえば、かつて旧東独も自国民を散々利用した。東西ドイツの国境に「ベルリンの壁」が構築されたのは一九六一年のこと。体制を嫌って自由を求め、西へ逃亡する者がひきもきらないというので苦肉の防止策だった。

 だが、その壁でさえ命がけで越えようとし、射殺される者、投獄される者が後を絶たなかった。そこで、西独側は服役中の彼らを、カネで救出する「自由買い」を制度化し、慢性外貨不足に悩む東独に手を貸すことにした。その見返りが、実は彼らのもたらす膨大な旧東独体制情報だったのである。結果、東独は崩壊した。

 北朝鮮も東独も、どちらも自国民を塗炭の苦しみに追いやったという点では変わらない。ただ当時、東独が反体制派を国外追放し外貨を稼いでいたのと異なり、北朝鮮は体制派までも狩り出している。いかに困窮し、「風前のともしび」にあることか。

 今回、小泉総理は、一見相手を油断させ、翻弄(ほんろう)されているように見せかけながら、金正日独裁体制を崩壊に導くその外交に挑んで見せた。これはイラク戦争をも視野にいれた国際情勢がらみの日本役割分担外交だからで、決して小泉総理が独断で行った外交ではない。私たちはこのことを見落として、今回の会談を一概に失敗と決め付け、責める愚を犯してはならない。欧州でいう外交とは百年作業と位置付けている。そう、ここは一つ小泉外交を長い目で温かく見守る寛容さと度量が必要ではなかろうか。

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