クライン孝子の辛口コラム
ドイツからの警鐘 Vol.37
   
したたかなドイツの領土奪回作戦

- 欧州一体化構想に託し初志貫く -

 (産経新聞  2004年7月3日「正論」より転載)
  

≪日独の差を拡大した15年≫


 西暦1989年といえば、日本では昭和天皇崩御で、平成と年号が変わった年である。
この年、世界は大激動を経験した。中国では官憲によって鎮圧されたものの、民主化を求めて天安門事件が勃発した、一方、欧州でも「ベルリンの壁」が崩壊している。
 これを契機として、第二次世界大戦後、約半世紀にわたって、敗戦国としてその負の遺産を背負い、戦勝国による戦争犯罪という名の熾烈な追求に頭を垂れ、罪の償いに終始してきた日本とドイツの立場は一転する。
 
 とはいえ、同じ敗戦国の身にありながら、日独両国は相反した道を歩くことになったのも事実である。日本ではこの歴史の分岐点を政治リーダーの不在ゆえにその好機を見逃し、一方ドイツは、コール首相を先頭に、一挙に「ドイツ統一」を達成、ついでユーロ通貨導入に踏み切り、欧州一体化の道をまっしぐらに疾走することになったからである。

 あれから15年、どうやら両国の差はさらに広がってしまったようだ。、
 近隣諸国において、中国とは首相の靖国神社参拝、尖閣諸島の領有権、東シナ海の海底資源の採掘権と排他的経済水域(EEZ)の境界線をめぐり、キナ臭い関係にあるばかりか、ロシアとの北方四島問題は一進一退。朝鮮半島に至っては、韓国とは竹島問題でギクシャクし北朝鮮とは核や拉致問題で引っかき回されている。
 一方、ドイツは順風満帆である。戦後ドイツが一貫して提唱し続けてきた欧州一体化構想が、6月18日ブリュッセルで開かれた首脳会議(サミット)で将来像を定めた基本条約「EU憲法」を全会一致で採択したことで、世界におけるドイツ株が急騰している。

≪領土の三分の一をも割譲≫

 例えばドイツの近隣諸国=東欧諸国対策にしてもそう。
 この東欧諸国を視野に入れた欧州一体化構想では、一見、見落とされがちだが、ドイツはこの構想によって、実は、今回、九分九厘領土問題をクリアしてしまった。

 時計の針を第二次世界大戦終戦直後に戻すと、ドイツはかつての領土三分の一を旧ソ連とポーランドに割譲されてしまった。多くはポーランド領に塗り替えられたものの、300年にわたりプロイセンの領地として、その名を哲学者カントとともに世界にほしいままにしたかつての文化都市ケー二ヒベルグに至っては、カリーニングラードと名を改め、、戦後西側を睥睨する軍港要塞地として統治されることになった。

 ところが、何と、今回の東欧八ヶ国EU加盟で、前者においては、ポーランドに割譲されたドイツ旧領土は欧州連合の一部として欧州化され、後者においては、ロシア領カリーニングラードはポーランドとバルト三国によって挟み撃ちになってしまった。

 当時(90年代初期)この事態をいち早く喝破した旧ソ連ゴルバチョフ書記長は、「壁」崩壊が起爆剤となり、第二次世界大戦後、旧ソ連の隷属下にあった中・東欧諸国がわれ先にと西側陣の傘下に下っていくなか、バルト三国だけはそうさせまいと、直ちに軍隊を派遣し、独立気運の流れに楔を打ち込もうとした。

 だが市民は了承しなかった。人間の鎖を作って執拗に抵抗を試み、独立を勝ち取ってしまったからだ。 

 そのバルト三国だが、一足先に北大西洋機構(NATO)入りしたポーランド、ハンガリー、チェコなど東欧諸国とともに、今年NATO加盟を許されたばかりか、晴れて欧州連合(EU)加盟をも達成し、軍事・政治・経済三拍子揃って、西との固い絆を構築した。、

≪分断の屈辱感が原動力に≫

 武力に代わって、巧みな対話で欧州一体化主義=拡大策を軸に、最終的には旧領土囲いこみまでも成功してみせたドイツ! この見事な遠隔・迂回作戦の秘訣だが、そもそもドイツがこのような領土奪回作戦を展開したその真意とは一体何だったのだろうか。

 理由は、第二次世界大戦後、急速に台頭してきた米ソ両大国によってドイツばかりか、欧州サイドでも東欧を境に分断の憂き目に遭遇したことにある。
口にこそ出さぬが、この米ソによる乱暴な占領政策にドイツ人のみならず欧州人は怒っていたのだ。ドイツはその東欧人の内に秘める屈辱感を原動力に、欧州化戦略を貫徹して見せたというわけである。

 これこそコールを初めとする戦後の歴代ドイツ政治家の不屈な面魂、政治エネルギーでなくて何であろう。日本の政治家に爪の垢でも煎じ飲ませたい、とこう思うのは私だけだろうか。

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