クライン孝子の辛口コラム
ドイツからの警鐘 Vol.51
   
 「死ぬ権利」の法整備は時代の要請   
-安楽死否定の独でも変化の兆し-


 (産経新聞  2006年4月12日「正論」より転載)
  
≪無理な延命は医療なのか≫

 富山県の射水市民病院で、外科部長の男性医師が患者本人の意思確認なしに人工呼吸器を取り外し、同県内の男女七人の患者を「安楽死」させたとして、警察が殺人並びに殺人幇助(ほうじょ)の容疑で、捜査に乗り出したという。

 私はこのニュースに、一瞬奇妙な思いを禁じ得なかった。なぜなら、日本の友人の母親が数年前に末期がんと診断され、入退院を繰り返したのち、八十四歳で病院で亡くなったのだが、本人には告知せぬままだったにもかかわらず、人工的な延命措置は一切断った友人の願いを、病院側も全面的に受け入れてくれたと聞いていたからだ。

 しかもその間、医師と患者そして家族の間に、暗黙のうちに少しでも激痛から当人を解放しようという、死に行く者への労(いたわ)りと気配りによる固い絆(きずな)を築くことができたという。友人は病院側に今も感謝していると話している。それなのに、一体これはどうしたことなのだろう。

 かれこれ三十年も前の話になるが、ドイツのわが家でも当時六十五歳だった舅(しゅうと)が肝臓がんと宣告された。手術をしても長くはもたないという医師の説明を受けるや、姑(しゅうとめ)と夫はその場で過度の延命措置を拒み、最後の一カ月は自宅療養をさせ、家族で舅の最期を看取った。本人は病名を知らぬまま、「有難う」と言い残して息を引き取った。

 ドイツでは一部の例外を除き、意識回復の見込みのない“生ける屍(しかばね)”同様となった生命を医学の力で無理に引き延ばし、生存を強いることは、人間の尊厳を損なう冒涜(ぼうとく)行為だとされている。治る見込みのある治療ならともかく、不治の病に侵され、手の施しようがない患者もしくは肉体的に耐え難い苦痛を和らげる方法のない患者のケアは、医療行為とは峻別(しゅんべつ)されている。


≪安楽死を望んで外国へも≫

 このケアだが、一つは、人工呼吸器を外す行為などを含む延命治療の中止によって自然な死を奨励する尊厳死であり、もう一つは、医師が薬剤を投与することなどにより、積極的に生命を縮める安楽死である。

 尊厳死については、先述の通り、例外はあるもののドイツでもほぼ容認されている。しかし、安楽死については、ナチス時代に、優生思想から国ぐるみの大掛かりな「安楽死計画」が企てられ、多くの障害者や難病患者を犠牲にしたという忌まわしい「負の歴史」があるため、ドイツでは刑法二一六条により固く禁じられているのである。

 しかし現実はどうか。欧州ではオランダが二〇〇一年、続いて二〇〇三年にはベルギーが事実上安楽死を認める法律を制定しているが、スイスでは既に六十年余り前から安楽死は合法化されてきた。そのスイスには、この制度を支える組織として一九九八年、「死ぬ権利」を世界へ呼びかける「デグニタス」という慈善団体が設立されており、昨年には、ドイツにもその支部が開設された。

 安楽死禁止のドイツに、なぜこうした支部が開設されたのか。その理由は「デグニタス」の現会員約五万人の実に三人に一人、設立以来の安楽死者数では約五百人中、半数以上がドイツ人であるという現実に見いだせる。

 安楽死を選択したドイツ人会員はスイス国内に向かわなければならず、病状が末期にあり、自分の意思による熟慮の末の選択であること−など、受け入れには厳しい条件が付いている。にもかかわらず、ドイツ人の安楽死に対する関心は非常に高い。

 今回の支部開設により、ドイツでも近い将来、安楽死容認の法律成立に向けた動きが強まるのではないかとみられている。

 事実、隣国オランダでの“安楽死法”制定をきっかけに、欧州の他の国でも、この問題を共同で検討する動きが出てきている。


≪タブー視せず積極論議を≫

 たしかに、安楽死の合法化には悪用の危険性もつきまとう。とりわけ犯罪行為につながることを心配する慎重論は依然として根強くある。

 だが、過度の延命措置は、本人の苦痛はもとより、家族にも精神的、経済的に大きな負担を強いる。医療費の国庫負担も増大させている現実も無視できない。

 これまでタブー視しがちだった人間本来の生き方=死生観とその問題点について、積極的に議論すべきときがきている。

 家庭、学校、地域など幅広いステージで取り上げ、社会全体として安楽死や尊厳死をいかに現実的なものとして受け入れていくか、そのための法整備についても早急に取り組んでいくべきではないだろうか。

to Back No.
バックナンバーへ