クライン孝子の辛口コラム
ドイツからの警鐘 Vol.55
   
  「国際情報収集のインフラ整備急げ 」  
−国防−情報戦略は最重要の「国の柱」- 


 (産経新聞  2007年1月21日「正論」より転載)
  
 ≪翻弄される日本の外交≫

 13歳の少女だった横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されたのは1977年だから、既に30年になる。拉致の疑いが否定できない特定失踪(しっそう)者は250人にのぼるといわれている。

 また「帰還事業」の名のもと、1959年から84年まで10万人近く(うち約7000人は日本人妻や子供などの日本国籍保持者)が、北朝鮮による「地上の楽園」プロパガンダに踊らされ、「片道切符」で北に渡ったまま放置されている。ともに救出作業は遅々として進まず今日に至っている。

 この間、北朝鮮は着々と核開発ならびに弾道ミサイル実用化を進め、6カ国協議では、5カ国の対北姿勢の足並みの乱れに乗じて時間稼ぎをしつつ、「倭国」なる蔑称(べっしょう)を使って対日攻勢に余念がない。

 その「ならず者国家」北朝鮮に、かつて日本政府は人道支援を名目にコメ支援を行い、政治家にあっては閣僚も含め、過去の罪を償い、新たに友好関係の絆(きずな)を深めると称して“土下座訪朝”する愚を犯してきた。

 日本政府の外交上における致命的ともいうべき失態だが、理由は、日本には北朝鮮はむろん大半の国が備えている「情報機関」がないため、有効な外交カードが切れず、徒(いたず)らに風評に振り回され翻弄(ほんろう)される状況にあるからだ。

 ≪ドイツ情報戦略の周到≫

 「ベルリンの壁」が崩壊する前だったから、かれこれ二十数年前のこと、「壁」の向こう側、東ベルリンへ旧東独の実態を探るために、何度も足を運んだことがあった。

 旧東独で発生した西ドイツ人拉致事件をはじめ、東西に引き裂かれ生き別れになって東側に取り残されていた家族の悲劇を追跡するためだった。東ベルリンに入るときの東独の検問所における緊張感や、電車に乗って東へ入る時から尾行がついているのが気配で分かる気味の悪さは経験した者でないと分からない。無事帰れたときはほっとしたものだった。

 ある時は東から逃げてきた知人から、「気をつけなさい。あなたにはかわいい一人息子がいますね」と念を押すように忠告され一瞬背筋が寒くなったのを覚えている。

 にもかかわらず最後まで真相に迫ることが可能だったのは、第二次世界大戦後早々と、西ドイツに自国の国民を守る態勢の整備が確立していたからである。

 きっかけは1950年の朝鮮戦争だった。西ドイツのアデナウアー首相(当時)は朝鮮戦争を米ソによる冷戦の激化と分析し、直ちに国防の構築に着手したのだ。

 具体的にはこの年、首相直属の「再軍備のための準備」機関を設け、5年後の1955年には連邦軍を創設、この年NATO(北大西洋条約機構)に加盟するにあたって「連邦情報局」を新設し、対外情報活動、特に旧ソ連を標的に東方情報活動を展開する態勢を整えたのである。

 かつて本欄において触れたが、イラク戦争で反対表明したはずのドイツが、その実、米独両国共同作戦の一環としてCIA(米中央情報局)に協力し、工作員をバグダッドに派遣して諜報(ちょうほう)活動に当たらせたのも、これらの活動をもとに国際情報を分析した結果、とった政策だった。

 国内においても早くから“見えない敵”による国家破壊工作を防止するため「連邦憲法擁護法」(別名・スパイ防止法)や取締機関にあたる憲法擁護庁を設置し防諜(ぼうちょう)に心血を注いでいる。

 ≪防衛省と日本版NSC≫

 日本でもこの1月9日、防衛庁発足以来52年にして、防衛庁が「省」へ昇格した。これを受けて防衛省は長期防衛戦略を構築するため「戦略企画室」を設置するという。首相官邸でも安倍内閣発足と同時に日本版NSC(国家安全保障会議)がスタートし、国家の柱である国防=情報活動を最重要政策として位置づける動きが本格化している。

 スパイ天国という汚名を返上するために大いに歓迎するところである。とりわけ国際テロが激化し、今や戦争は国家間で起こるものでなくなってきている。核兵器がいったんテロリストの手に渡れば、核の抑止力など全く機能しなくなる。そんな緊迫した状況にあって日本は国際社会の平和と安定に備え、NATOとのいっそうの連携強化を模索し始めている。

 このような風雲急を告げる今日、日本がなすべき課題は、何はともあれ半世紀に及ぶ情報活動の立ち遅れを取り戻すため国際情報を収集・分析・集積する機関など、“情報インフラ”整備へ向けて、具体的な作業にとりかかることではなかろうか。

to Back No.
バックナンバーへ