クライン孝子の辛口コラム
ドイツからの警鐘 Vol.62
   
 ベルリン壁壁崩壊から20年と拉致


 (産経新聞  2008年12月2日「正論」より転載)
  

 ≪中山補佐官ベルリンへ≫

 横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されてから今年で31年になった。その日、11月15日、めぐみさんのご両親はブルーリボンを胸に、新潟市内で開かれた県民集会に出席し、一刻も早い拉致被害者の救出を訴えた。

 この同じ日に、鹿児島県吹上浜海岸から拉致された市川修一さんの母、トミさんが亡くなった。91歳だった。この30年間、一日千秋の思いで息子の帰りを待ちわび、ついに再会を果さないままの他界である。

 相手がならず者のテロ国家であることを考えれば、交渉ごとも一筋縄ではいかないのは百も承知である。だが、いまだ北に残る拉致被害者の救出が思うように進まない現状は、被害者の家族の中に高齢の方々も多いだけに、人ごととは思えないいらだちを覚えさせるのである。

 11月中旬の1週間、内閣総理大臣の拉致問題担当補佐官である中山恭子さんが、日本の拉致問題の解決を訴えるためドイツ、イギリス両国を訪問した。関係者からの知らせを受けた私は、住まいのあるフランクフルトから早速ベルリンへと飛んだ。

 ≪独に拉致解決のノウハウ≫

 日独の要人らによる会談結果を待つ間、私はドイツ連邦議会の近くにある一群の「白い十字架」と、「スターリングラードの聖母像」(別名「塹壕(ざんごう)の聖母像」)が飾ってあるカイザーヴィルヘルム教会を訪ねることにした。

 「白い十字架」には、1961年8月13日に突然築かれた「ベルリンの壁」にまつわる逸話がある。生き別れになった肉親に会うため、壁を越えて西側に入ろうとして東独の国境警備隊に射殺され命を落とした東独市民のためにつくられた十字架である。

 89年11月9日に壁が崩壊するまで28年間、その犠牲者は何人になるのか。多数の十字架が壁のあった場所に並べられている。この中には13歳と10歳の少年のものもある。

 聖母像は、第二次世界大戦における独ソのスターリングラード攻防戦を思い起こさせる。ドイツ兵士たちは刻々と迫りくるソ連包囲網の中、絶望的な状況にあってクリスマスを迎えた。若い軍医が、探し当てた一枚のソ連地図の裏に物悲しげな表情を浮かべた聖母が子どもを懸命にかばっている姿を描き、塹壕の壁に張り付けた。

 これを見た兵士たちは雷に打たれたように立ちすくみ十字を切り、一斉に「聖しこの夜」を口ずさんだ。間もなく、この軍医は捕虜となり収容所で病死するのだが、この絵は無事に家族のもとに届けられ、息子の手で教会に寄贈されることになったのだ。

 第二次大戦の敗戦を6歳で迎えた私には、荒野をさまよい、命からがら満州から引き揚げた原体験がある。それだけに、「白い十字架」も「塹壕の聖母像」もきわめて身近なものに感じられる。

 そして、何のいわれもなく拉致され、ひたすら望郷の思いを募らせながら、救出を待ちわびる拉致被害者の悲痛な心の叫びが私の当時の遠い記憶と重なり、一本の線でつながるのである。

 「白い十字架」も「塹壕の聖母」も、そして拉致被害者の「ブルーリボン」も共通した人の悲しみであり、痛みである。だからこそ、微力ながら、その解決のために手を貸していく。拉致問題の解決なくして何が日本外交かと思っているからである。今回の日独会談もそうだった。

 ≪欧州議会にも届く訴えを≫

 会談が無事終了し、結果を聞いてほっとした。中山補佐官の拉致被害者を救出したいとの訴えに、メルケル独首相補佐官も、独外務省外務次官も、超党派の連邦議員らも真剣に耳を傾けた。予定時間をかなりオーバーしたにも拘(かか)わらず、一人残らず身を乗り出すようにし、問題解決に最善を尽くすと約束してくれた、とのことだったからだ。

 ベルリンの壁が崩れて来年で20周年だ。いうまでもなくドイツは、第二次大戦直後から「ベルリンの壁」崩壊まで分断国家であり、頻繁に発生したソ連や旧東独による拉致事件に翻弄(ほんろう)された苦い経験を持つ。

 その記憶は20年たった今でも残っている。だから、ドイツには拉致問題解決のための貴重なノウハウもあるのだ。

 周知の通りメルケル首相も旧東独出身で、その辛酸をさんざんなめた。従って、彼女もこと人権問題となると一歩も引かない。その点では欧州議会の姿勢も一致する。

 今回の中山補佐官の訪欧はその意味でも大事な一歩だった。欧州への積極的な働きかけが、欧州議会はもちろんカトリックの総本山バチカンの法王などにも届き、拉致被害者救出への道筋となることを祈りたい。これには日本国民の拉致被害者への揺るぎない、温かい支援が重要であることは言をまたない。

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