クライン孝子の辛口コラム
ドイツからの警鐘 Vol.63
   
ソマリアで一皮むけたドイツ


 (産経新聞  2009年1月23日「正論」より転載)
  

決議直後に海賊を撃退

 アフリカ・ソマリア周辺沖で頻発している海賊の活動を防止のため国連安全保障理事会が決議案を全会一致で採択したのは昨年12月16日ことである。「空爆を含め、あらゆる軍事作戦を可能に」という内容のようだが、これを受けていち早く動いたのがドイツだった。
 
 即座に、ユング国防相を先頭に、総勢1400人の海軍の現地派遣を決めた。これにのっとって、国連決議から1週間後の23日には、アフリカ北東部ジブチ停泊中のフリゲート艦「カールスルーエ」が、第一陣として220人の海軍兵士を乗せ、ソマリア沖へ向かった。
 
 そしてその2日後には早くも、この海軍兵士らはエジプト貨物船からの緊急通報を受け、貨物船を乗っ取ろうとした海賊船上にヘリコプターで乗り込み、武器を押収し、海賊らを拘束した。
 
 海賊はドイツを標的とする攻撃ではなかったとして釈放した。しかし、それにしてもドイツ連邦軍の関係者らにとっては、「感無量」の瞬間だったのではなかろうか。こう思うのは、実は次のようないきさつかあるからだ。
 

≪「小切手外交」からの教訓
 
 ドイツが第二次大戦中のナチ時代の脱却を目指して連邦軍を創設し、北大西洋条約機構(NATO)に加盟したのは1955年だった。これにより集団的自衛権は許されたものの、その行使には「NATO域内に限る」という制約があった。
 
 しかし冷戦終焉(しゅうえん)直後、1990年に勃発(ぼっぱつ)した湾岸戦争で風向きが変わる。それまでドイツはNATOからの人的参加の要請を断っていた。日本と同じように、資金面での支援を優先したのだが、その政策が「小切手外交」と揶揄(やゆ)
 ドイツはこれを教訓に、積極的に海外での国連平和維持活動(PKO)に取り組むことになる。ソマリアPKO活動もその一つで、私が、連邦陸軍兵士とともに、駐屯地エチオピア国境近くのベネット・ウエンに出発したのは1994年10月半ばだった。
 
 それまでのカンボジア150人、イラク43人、ボスニア58人などと異なり、一度に1700人もの兵士を派遣する大規模なものだった。軍港に降り立ち、果てしなく広がる砂漠に点在する大テント村を目にし、一瞬圧倒された記憶がある。
 
 だが、いつ無差別殺戮(さつりく)が発生してもおかしくない危険地域なのに、兵士の武器携行は銃一丁のみ、しかも軽装備だった。それゆえ、彼らは背水の陣をしき、決死の覚悟で可能な限りの智恵を絞り、忍耐強く一歩一歩着実に苦難を克服した。
 
 今回、再びソマリアの地で海賊退治という任務を遂行できた。その陰には、当時の苦難を乗り越えてひたすらPKO活動に尽くした先輩たちの実績があったに違いない。


≪「チャンス」ととらえよ

 
 日本でも、麻生太郎首相が浜田靖一防衛大臣に、海上自衛隊の護衛艦をソマリア近海へ派遣する準備作業に入るよう指示した、という。スピード指令にも見え、いささか驚きを禁じえないが、その真意を忖度(そんたく)すると、多分に中国の動きに触発されたからに違いあるまい。
 
 今回中国はソマリア沖に向け70人の海軍特殊部隊員とともに、ミサイル駆逐艦や総合補給艦など計3隻を派遣した。遠洋への艦隊派遣は500年ぶりのことで、中国政府はこれを海外での実戦作戦ととらえ、「国連安保理常任理事国として派遣は当然」とコメントしている。
 
 しかし、中国の動きについて独紙フランクフルター・アルゲマイネは「平和貢献かどうか疑わしく、不気味である」と報じた。中国は昨今、国際社会の非難をよそに、ダルフール紛争を抱えるスーダンや崩壊寸前にあるジンバブエなど難題山積のアフリカ諸国への支援を続ける。され、国外から非難を浴びることになった。
 その中国の艦船派遣はもしかすると、海賊退治という緊迫したアフリカ情勢に便乗し、別の目的の舞台に利用しようとしているのではないか。欧州の疑心暗鬼の理由はそこにある。
 
 日本の自衛隊は、集団的自衛権の行使も許されていない。海と陸の違いこそあれ、かつてのドイツと同様に、手枷足枷をつけられた状況におかれている。ソマリア沖への艦船派遣は、良きにつけ悪しきにつけ、好むと好まざるに関わらず日本にとってプラスになる。、である。ドイツにできて日本にできないことはない、と私は思う。
 
 あれこれ詮索し躊躇していて、話は先へ進まない。成せば成るもので、ここは覚悟を決めて行動に移すべきだ。ナポレオンではないが、「せっかくの優れた能力も、機会なくしては取るに足らなくなる」からである。

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